So-net無料ブログ作成
検索選択
中国・四国 ブログトップ
前の10件 | -

新広島球場 [中国・四国]

ど~も ながぼ です。

今回は新広島球場のご紹介。

名古屋方面から新幹線で来る時に

右手に見えてきます。

この日は広島VS横浜の試合チケットを

手に入れたので見に行ったの。

巨人FANですが広島も好きなので応援してましたぁ^^


 

 


 
地元の名古屋ドームに比べるとすごく開放的!

こういう球場はいいですねぇ。

JRにも近いのでセンター側より新幹線が見えます。

センターボード右側に
 
緑色になっている部分があるのわかります?

コカコーラの下です。



寝ソベリアっていうリビング感覚で
 
寝転びながら観戦できる場所です。

マットも付いて7000円!




外野のフェンス際に目を向けると
 
何かのぞき窓が見えますねぇ。

スポーツバーと呼ばれる場所です。

30分交代制で500円!



スポーツバーでございます。

バットが見えますが、
 
観客席にこの上の部分が飛び出ていますよ。

 

スポーツバーの一番前からの景色です。

広島の選手達が試合前の練習してます。

フェンスから手を伸ばせば土に触れちゃいますよ。

 


 
選手もこんな近くから見れます。

ボールが転がってきたら選手は
 
目の前に来ますから迫力はあるでしょうね。



 
ただ試合をこの目線で観るのはどうかなぁ。。。

砂かぶりと言われる席は4000~8000円ですが
 
目線が低すぎる気がする。

やはり少し高いところから全体見れるほうが
 
動きもわかって面白いと思うけどどうでしょ^^;

今回の席は、
 
バックネットやや3塁側の前から14番目。

2日前に広島到着したときに球場行ってこの位置!

まぁ相手が横浜てのもあるんですけどね。
 




広島旅行の最終日の夜に観た広島VS横浜! 

なんとか雨にならず楽しめました。

試合模様は

スポーツフォトカテゴリーで載せていきます。

翌日はホテルを遅めに出て昼過ぎの新幹線で

名古屋へ戻りました。

歴史だけでなく戦争の恐ろしさも学ぶ事になった

宮島・広島・江田島・呉のたび。。。

物悲しくもなりましたが

いろんな事を知る事ができました。

ここ寄ってみたいっていう場所も出来たし

今度は牡蠣の美味しい時期にまた行きたいなぁ。


nice!(0)  コメント(0) 

呉② ヤマトの諸君! [中国・四国]

宿直明けでお昼寝してた ながぼ です。

今日は大和ミュージアムのご紹介。

大和ミュージアム:

 東洋の軍港と言われ世界最大級の軍艦である

 戦艦大和を建造したまち呉。

 呉の歴史と大和に関してだけでなく、

 造船・鉄鋼などの技術なども学ぶ事が出来ます。


てつのくじら館からすぐに場所にあります。

戦艦陸奥の主砲なども展示されてました。


館内では東洋一の軍港として栄えた呉の歴史や
 
巨大戦艦大和の資料、沖縄特攻隊の遺書などを

パネルや映像などで知る事ができます。

1Fの資料館では、ゼロ戦、人間魚雷となった回天、
 
特攻潜水艦海龍も展示されてます。


 
しかし、ここのメインはなんと言っても
 
戦艦ヤマトの10分の一モデルでしょう!

全長26.3mもあり、当時の設計図をもとに
 
限りなく忠実に再現されています。


 

 


 

 


 
戦艦大和:

1941年就役、1945年4月7日に沖縄沖で沈没した
 
世界最大級の戦艦。

全長:263m、最大幅:38.9m、
 
基準排水量:65000トンで3000名もの乗組員。

これだけの重さで最大時速約51キロ出す馬力は
 
153553馬力もあったそうです。
 

アメリカの量に対して質で対抗しようと
 
当時の最新技術を集めて造られたのが大和。

これだけの大きな戦艦を短期間に造りだした技術は
 
後のタンカー造船技術にも活かされていき

造船王国日本といわれるまで成長させました。

また、造船・鉄鋼業界だけでなく、戦後日本の
 
復興や技術大国日本の礎となりました。

戦争が技術革新となるとはよく言ったものですね。 
 
悲しい事ですけど。。。

 
最上階のテラスからは
 
大和を生んだ呉港を見る事が出来ます。

左手にクレーンなどがある造船施設がみえます。

現在はIHI(石川島播磨重工業)の造船所ですが
 
戦艦大和を造ったドッグです。





軍港から造船のまちとして成長してきた呉を後に

広島へと戻りました。

この日は広島に宿泊

マツダ広島球場でのナイターチケットを取れたので

観に行くことにしたの。

いい球場でしたよぅ。


nice!(0)  コメント(0) 

呉① てつのくじら [中国・四国]

ど~も ながぼ です。

今日は呉にある 「てつのくじら館」 をご紹介。

てつのくじら館:

本物の潜水艦を陸揚げして展示する

海上自衛隊の施設。

艦の前に陸揚げされているのが「潜水艦あきしお」

長さ76.2m、幅9.9m、高さ10.2mもあります。



中では海上自衛隊の歴史、清海活動、
 
潜水艦についてなど知る事ができます。

海にまかれた機雷を除去する清海活動は
 
ペルシャ湾などで活躍してましたね。

処分ロボットです。

ドラム缶のように中は空洞だそうです。


これを船で引っ張りながら機雷の上に誘導。

遠隔操作で機雷を吹っ飛ばすんだそうです。

その写真がありました。

機雷爆破でしぶきが上がってますが
 
処理ロボットも飛んでいるの分かりますか?

こんな感じで潰れちゃうんです。
 
スゴイ威力です。。。




ここでは、展示用に船横に開けられたドアから
 
潜水艦内部に入る事ができます。


 
想像以上に狭いです!

灯を照らしてありますが、昼夜の感覚がない。

夜は赤色灯など昼夜の違いを出しているそうです。
 

  艦長室です。 狭いでしょ~!

艦長室でこうですからね
 
他の隊員はベッドが3段になっています。

ほんと寝るだけのスペースですね。



潜望鏡や操縦席などがある
 
潜水艦の中心となる場所です。

潜望鏡からは実際の呉港を見る事が出来ます。




潜水艦は想像以上に狭かったです。

食堂の座席の下が食糧貯蔵庫になっていたり

会議室の机が治療ベッドに変化できたりと

狭い空間をうまく活用してあるのがわかりました。

海上自衛隊は現在も海賊退治してますね。

PKOや地震等での災害時にも危険な場所で

国際貢献しています。

自国防衛だけでなくこういった活動にも

目を向けないといけないなぁと感じました。

次回は「大和ミュージアム」

戦艦大和についてです。

お楽しみにぃ。


nice!(0)  コメント(5) 

江田島・呉 [中国・四国]

ど~も ながぼ です。

今日は江田島と呉の1回目。

呉の6km沖合いに浮かぶ江田島。

行くにはフェリーと陸路の両方があります。

ここ江田島には。。。

海上自衛隊幹部候補生学校があります。

ここを卒業しないと幹部になれないので

エリート中のエリート育成学校ですね。

これは、旧海軍兵学校が江田島にあり、

その設備を活用しているからなんです。

広島であり戦艦大和などを造られた呉。

様々な物が勉強になるんでしょう。

兵学校と呼ばれるのは江田島だけで

同期の桜はここ江田島の兵学校にあります。

基地内の歴史建造物などを見ながら

説明を受けられることができますよ。

 
中では元自衛官の方が説明をしながら
 
案内してくれます。

現在でも使われている大講堂や赤レンガ造りの
 
旧生徒館などを見ることが出来ます。

明治26年建築の旧生徒館。

幹部候補生学校として使われています。



松の木が全てまっすぐ立っていますよね。

学校の目の前で集会場でもある
 
グラウンドに面しているので、

「きおつけ~!」と何度も言われているうちに
 
まっすぐ伸びていったとか。。。

って言うのは冗談で、女人禁制であったので
 
松の木も男松のみ植えたからだそうです。

でもね、よぉ~く探すと1本だけ女松があるんですよ。 

現地で探してみてね^^

学校の正面は歴史を感じさせます。 

一般の人たちは入る事ができません。



建物を写し忘れてしまいましたが

御影石作りの大講堂があります。

ここは中に入って見る事が出来ます。

マイクは一切ないので自分の声で話すのですが
 
音響ばっちりでマイク無しでも声が響きます。

入学式や卒業式が行なわれる場所で
 
約2000名収容できる講堂です。


 
歩いている途中、
 
赤レンガ造りの学校の廊下を見る事が出来ました。

等間隔で並ぶ柱にライトがすごくキレイでしたよ。



 
他にも教育資料館では勝海舟の書や
 
海軍に関する様々な資料を見る事が出来ます。

特攻隊の方や人間魚雷で亡くなった方の遺書も。。。

死に向かうのに書かれた文字はものすごく上手で
 
全く乱れがないんです。

精神的に違うんでしょうか? 
 
その頃の国家教育も違うので
 
比べる事もできないのですが・・・

平和記念資料館とは違った感じを覚えました。


戦艦陸奥の主砲や大和の弾なども見られますが
 
近くにいけるのは日曜だけらしい。

今回は大雨が振り出して全てを見られずに
 
解散となってしまいました・・・

でもいろんな事を学ばせてもらいました。



江田島を後に呉港近くへやってまいりました。

桟橋に海上自衛隊警備艇が並んでます。

その向こうに見える茶色の建物が
 
「大和ミュージアム」

真ん中に三角お山が横に飛び出してますが
 
潜水艦を学べる「てつのくじら館」



てつのくじら館ともなっている
 
実際に使われていた潜水艦です。

デカイですよぅ。

潜水艦の後ろはショッピングマートなので
 
違和感ありまくってましたけどね。




次回はてつのくじら館をご紹介します。

おたのしみにぃ。


nice!(0)  コメント(5) 

岩国:しろへび [中国・四国]

ど~も ながぼ です。

岩国城の後に書こうとしてた記事を忘れてた。

今日はそのお話。

岩国城へ行くロープウェイ乗り場前に

天然記念物を見られる場所があります。


幸運を呼ぶというシロヘビを見られる場所。

入り口前のベンチには
 
白い猫が大また開いてましたよ^^;


シロヘビ:

長さ180cm、胴回り15cmあまり。
 
目は真っ赤で全身は白く光沢があります。

江戸時代に発見された記述があるそうです。

シロヘビは、
 
アオダイショウが突然変異によって白化したもの。

白化現象は一代で終わるのが普通ですが、
 
岩国のシロヘビのみ自然界で累代繁殖しています。

これは神の使いとして崇められ大切にされてきた
 
からだと考えられているそうです。

捕獲や飼育される場所は各地にあるが
 
自然繁殖し生息しているのは岩国錦帯橋付近のみ。

そのため岩国のシロヘビのみが
 
天然記念物に指定されています。

現在はエサとなるネズミなどの減少等、
 
環境変化で約800匹程度に減ってきているようです。
 
 

 
シロヘビはとても珍しく
 
昔より神の使いと崇められました。

人頭蛇身の弁才(財)天の使いとして
 
富をもたらすものとして信仰対象になっています。

そう思うとありがたく感じてお願いしちゃいました。

サマージャンボの期間だしね^^


この観覧所には花も咲いており、
 
黒アゲハが飛んできてたので(-p■)q☆パシャッ☆

白ヘビ、白ネコ、黒アゲハ・・・
 
相反する白と黒が幸運の兆しとなりますように。

 


 

ここで、岩国の名物をひとつ。

岩国寿司です。

岩国城主が保存運搬に便利な食べ物をと
 
作らせた事から殿様寿司とも言われている。

岩国の冠婚葬祭には欠かせない郷土料理



簡単に言えばチラシ寿司の押し寿司といった感じ。

味は良く言えば薄味で殿様寿司ってのも納得。

悪く言えば酢が薄い。

酢飯好きな人には物足りないかもね。

次回は、同期の桜で有名な兵学校江田島をご紹介。

続いて、呉観光広島球場と続きます。


nice!(0)  コメント(4) 

広島平和記念館② 千羽鶴 [中国・四国]

今日は原爆による悲しいお話。

多くの悲しい出来事がありますが、

その中の代表的なものです。

広島の平和公園=千羽鶴

というイメージがあると思いますが、

その元になったお話しです。

平和記念資料館に立ち寄った際に

広島TVが取材に来られてました。

外国の先生たちが来館して説明を聞かれていた

ところで、ある話を後ろで聞かせてもらいました。

自然と涙があふれて頬をつたわっていきました。

自分でもビックリしたくらいです。。。


原爆が落ちた1945年8月6日

爆心地より1.7kmに住んでいた

理髪店の家族も被爆しました。

その中に、佐々木禎子さんという

2歳の女の子がいました。

家で食事をしていた時で家の壁が崩れて

吹き飛ばされるも怪我もなく無事でした。

壊れた家から逃げ出している時、

空から黒い雨が降ってきました。

黒い雨は、原爆炸裂時の泥やほこりが

混ざった物で大量の放射能も含まれていた。

それが二次的被爆となり多くの人々に

悪影響を及ぼしていくことになったのです。。。


1954年秋

原爆投下から10年近く経ち、広島のまちも

人々も落ち着きを取り戻してきました。

禎子さんは被爆したものの元気に成長し

小学校6年生になりました。

クラスでもずば抜けて運動ができる少女で、

50mを7.5秒で走ったそうです。

秋の運動会のリレーでも活躍し優勝もして

将来は体育の先生になるのが夢でした。

そんな運動会の後、風邪をひいたのですが

治りが悪く首にシコリが出来始めたのです。

シコリは消える事もなく年が開けた1955年には

顔が腫れて見えるようになってしまいました。


1955年2月

検査の結果、白血病とわかりました。

医師はお父さんに「もって1年でしょう」と

告げたのです。。。

禎子さんは広島赤十字病院で入院する事に。

禎子さん自身は白血病の事は知りません。

その年の5月に同じ病院に入院していた

5歳の子が白血病で亡くなりました。

「わたしもあのように死ぬんだろうか。。。」

禎子さんはポツリと口にしました。

もしかしたら気付いていたのかもしれませんが、

一切口に出さなかったようです。

12歳で死の恐怖と戦っていたのです。。。


1955年8月

名古屋の高校生から入院患者のお見舞いとして

千羽鶴が送られてきました。

禎子さんの病室にも届けられました。

禎子さんが千羽鶴を折るようになったのは

この頃からです。

病院で入院している人たちも折り始めました。

「鶴を千羽折ると願いが叶う」という言い伝えを聞き

「元気になりたい」という願いをこめて

折り続けました。

折った数は千羽を越えましたが、

もう1000羽折るわと折りつづけました。

折り紙は当時高価な物だったので

薬の包み紙などでも折ったそうです。

折り鶴の大きさはどんどん小さくなり、

針を使って折るようになっていきました。

小さければ願いも早く叶うと折り続けました。

禎子さんは、

痛い辛いを口に出した事がありません。

小さい鶴を折ることに集中する事で痛みなどから

逃れようとしていたのかもしれません。。。

禎子さんが折った鶴が展示されていました。


 
治療は点滴などありますがとても高価でした。

1回の点滴費用は、理髪店のお父さんが
 
5人分をカットする費用とほぼ同じだったようです。

なので満足な治療が出来たわけではありません。

リンゴを切ってあげても口で噛む力が
 
無くなくなっていったそうです。

それでも痛いだのといった事は口にも出さず、
 
周りの人を気遣っていたそうです。

禎子さんは自分で白血病であり、
 
死んでしまうだろうと知っていました。

入院中に本などを見て自分で調べたようです。

禎子さんの日記にあった入院中に自分の
 
白血球などの数値を書き写したものです。
 
 


1955年10月25日

運動会リレーで優勝して1年が経った日の朝、

とうとう禎子さんは天国へ旅立ちました。

家族に見守られながら

12年という短い命が閉じられたのでした。


禎子さんの死後

同じクラスの友達の中にも

被爆した子も沢山いました。

「お墓を近くにたてれたら毎日お参りに行ける」 

「禎子さんだけじゃなく原爆で被害のあった

子たちの為に何かしたい」

「平和公園に像を造れないだろうか?」

「いくらかかるんだろう」・・・

子供達は募金を開始しました。

みんなの訴えは全国へと広がり

全国の3000を超える学校から

手紙と募金が集まりました。

1957年、平和記念公園に「原爆の子の像」 が

建てられることが決まりました。



像の上に両手を広げて鶴を掲げるのは

佐々木禎子さんです。

像のそばに置かれた石碑には

「ふたたび原爆によって子供達が犠牲に

ならないように」といった

気持ちが刻まれています。



これはぼくらの叫びです

これは私たちの祈りです

世界に平和を気づくための



千羽鶴も禎子さんの思いをつなげていくために

全国より集まってきました。

平和記念公園に飾られている千羽鶴も

こうして送られたり持ってこられた折鶴です。

参考:広島平和記念資料館冊子・HP



長くなってしまいましたが、

何か少しでも伝わればと思っています。

百聞は一見にしかず・・・

是非行かれて見て感じてください。。。


広島平和記念資料館① [中国・四国]

今回は広島記念資料館。

写真は全て記念館に展示してある物です。

長崎の資料館よりも目に飛び込んできて

何とも言えない気分になります。

 

昭和20年8月6日未明・・・

原爆を積んだ米軍爆撃機B29「エノラ・ゲイ」は

日本へ向けて出発。

原爆威力の把握もあり、原爆威力を記録する

科学観察機と写真撮影機の2機も同行。


午前8時9分・・・

広島・小倉・長崎の目標のうち、

第一目標である広島市上空に到着。

この日の広島は、

暑い日差しの照りつける晴天でありました。

投下目標地点は、

広島市中心部のT字型に見える相生橋。


 
午前8時15分17秒

エノラゲイを離れた原爆は、
 
相生橋の東南約300mにある島病院の
 
上空約600mで炸裂!

ピカ!と光った次の瞬間、ドン!という
 
衝撃と爆風が一瞬のうちに起こりました。

爆心地から1km範囲の耐震設計の
 
鉄筋コンクリート建築物以外は全壊。

2km離れた場所でも木造建物は全壊。

当時、広島市には34万人余の人たちが。。。

爆心地から1.2km範囲では
 
当日中に50%死亡、
 
同年12月までに14万人が死亡と推測。


 
廃墟となった広島

原爆落下地点は、原爆ドームより左後方の
 
三叉路から左手前に戻った場所です。 

右手後方の三角州、今は平和記念公園です。


 
原爆が炸裂した時間で止まっている腕時計


 
爆心地より2270m、
 
8月6日午前11時頃

被爆直後の実際の写真です。


 
爆風で家屋倒壊もあった2km付近ですので、
 
靴は無くとも衣類は着ておられます。

爆心地ではこの世の終わりの風景が
 
広がっていました。。。

原爆炸裂後の地表温度は3-4000度、
 
屋外にいた人は全身皮膚が炭化、

細胞組織の水分が蒸発して
 
「水気のない黒焦げの遺骸」 が道路に多数。。。

爆心地を通過していた路面電車は
 
炎上したまま黒焦げの死骸を乗せて
 
惰性でしばらく走り続ける。
 
車内にはつり革を手で持ったままの人、
 
運転台でコントローラーを持ったままの運転士も。
 

 
想像を絶する被害の説明だけでなく、
 
ケロイド状に火傷を負った人の写真もあります。

そして、
 
被爆して原型をほとんど残していない
 
遺品なども遺族より提供されています。


 




原爆投下予定地は日本全国にあったようです。

距離的問題から東京より西側で

長崎までの17都市が候補。

東京湾、川崎市、横浜市名古屋市、

大阪市、京都市、神戸市、呉市、広島市、

山口市、下関市、八幡市、小倉市、福岡市、

福岡市、佐世保市、長崎市。

この中ですでに空爆で崩壊した都市が除かれ、

歴史建造物が多い京都市も外された。

軍需工場があり周囲に民家が広がっている

地域に絞られていきます。

1945年5月には、広島・小倉・長崎に

最終候補地が決められた。

この都市への空爆は禁止、

原爆投下の事前警告は行わない事も決定。

これは原爆資料を把握するために空爆した後では

正確な資料が作れないからです。

人はこうも恐ろしくなれるものなんですね。

アメリカでも原子力は平和利用のためであって

兵器としての使用開発はすべきでないといった

科学者や直接担当者もいたようです。

大統領側近や将軍などの軍内部でも反対の声は

多くあがり阻止への動きもあったようですが、

戦争状況や国益などがこの声を無視して

悪魔的な行為へと加速していきました。。。

 

写真載せて記事書いていると

思い出して涙が出そうになります。

実際に見ると写真以上に衝撃を受けますし、

自然に涙が流れますよ。

被爆当時に異常が見られなくても数年や

10年後にガンや白血病が発症していきました。

次回はそのお話しをしていきます。。。


nice!(0)  コメント(4) 

広島城と平和祈念公園 [中国・四国]

今回は、広島城と平和記念公園です。

広島城と平和記念公園は15分くらいで行ける。

炎天下の中、歩きましたよぅ。 

汗だくです! (;´Д`A ```

広島城:

1589年、毛利輝元が築城。

関ヶ原合戦後は、福島正則が改築入城。

350余年の歴史も

一発の爆弾が壊してしまいました。

お城はもちろん樹齢500年以上の杉木も

石垣を残してなくなってしまったのです。

天守閣は焼失ではなく、

爆風で崩壊したらしいです。

現在の天守閣は、

昭和33年に再建され資料館になっています。


 
天守閣最上部からの眺めです。

原爆被害の際は、炎から逃れようとした人々が
 
この濠で多数死亡したらしいです。

向こうに見える茶色い建物が昔の広島球場。

その向こうに原爆ドームがあります。





広島城から15分くらいのところに

平和記念公園、原爆ドームがあります。

平和記念公園:

爆心地近くに昭和29年に完成した公園。

園内には、原爆ドームや資料館など原爆の

惨禍を伝える施設や慰霊碑があります。

平和記念資料館前にある

「嵐の中の母子像」「祈りの泉」 です。

母子像は、乳飲み子を抱え幼児

背負おうとしている姿が。

祈りの泉は、水を水をと言いながら息絶えた

被爆者の御霊捧げ慰める心が込められてます。

奥に原爆ドームが見えますね。

 

 


泉の向こうに進むと

「原爆戦没者慰霊碑」 が見えてきます。

原爆被害を受けた広島市を平和都市として

再建することを念願に建てられました。

この慰霊碑から一直線に、

平和の灯火・原爆ドームと結ぶように

建てられています。


 

園内にはこうした慰霊碑や

モニュメントが多数あります。

「原爆の子の像」 もそのひとつです。

原爆でなくなった全ての子供達の為の慰霊碑。

全国の学校などから送られた
 
千羽鶴が納められています。


 
ここから左に入った場所にあるのが
 
「平和の鐘」

お堂が宇宙、鐘が世界を表しています。


 
この鐘には世界地図が描かれています。

よく見ると国境線がありません。

核兵器と戦争のない世界平和を願っています。



平和記念公園は、太田川と元安川に

挟まれた三角州にあります。

原爆ドームは本安川側にあります。

原爆ドーム:旧広島産業奨励館

(当初は広島県産業陳列館として開館)

この日のように暑い日差しの照りつける日。

1945年8月6日午前8時15分7秒。。。

原爆ドームの東150m、

病院の上空約580m地点で炸裂。

地表温度3000度の熱と

1平方メートルあたり35トンという爆風圧により

建物は1秒以内に崩壊。

窓が多く爆風が窓から吹き抜け、

衝撃波はドーム上に抜けたので

壁の一部が残ったそうです。

中にいた職員約30名は熱戦と爆風で

全員即死だったと推定される。

ポーランドにあるナチスのアウシュビッツなどと

並び負の世界遺産呼ばれています。

爆心地であった島病院は、

現在も開業当初の島外科として

開業当時の場所で開業しています。


 




「原爆の惨禍の証人」と

「危険であり被害を思い出したくない」という

意見で対立もしましたが、昭和41年に

永久保存が決定し幾度の保存工事も

行なわれ保存されています。


「あの痛々しい産業奨励館だけが、

いつまでも、

おそるべきべき原爆のことを後世に


訴えかけてくれるだろう」

という被爆が原因とみられる

白血病で亡くなった高校生の日記に

多くの人々が心をうたれたのが

保存へとなったきっかけです。。。

回りは近代的な建物が建ち、

平和記念公園も観光地化されています。

ただ観るだけでなく、こういった事を考えて観ると

また違った思いを感じられると思います。

次回は平和記念資料館です。

長崎にある平和資料館も行きましたが、

比べ物にならないくらい視覚に訴えてきます。


nice!(0)  コメント(6) 

路面の車窓から:広島 [中国・四国]

今回は山口の岩国を後にしてから広島まで。

錦帯橋のある岩国を後にして広島へ。

岩国から広島まで山陽本線でいけますが、

路面に乗りたくて宮島口で下車。

宮島口桟橋前にある広島電鉄の宮島口から

路面電車で広島駅まで約1時間。

広島にある路面電車は距離や車両から

日本最大といっても良いと思います。

被爆を受けた車両も2両現役で走っています。

また、大阪京都で走っていた車両も

走っているんですよ。

そんな広島の路面電車からの景色です。


3800型:1887~89年製造の車両です。


 
ちなみに車両の中はこんな感じです。

地下鉄に近い感じかな?


 
一番前の運転士横の席を確保しましたよ!

カメラ持ってたら
 
「景色良いし撮って良いよ」って言われた!

お客さん沢山乗ってきて
 
少し遠慮がちに撮っていたσ("ε";) ボク


路面電車なのに鉄道の線路?
 
って思ったでしょ!

そうなんです! 
 
宮島口から西広島駅までは鉄道と同じ線路!

広島駅から西広島駅までが
 
市内150円均一の路面電車なんです。

西広島から鉄道と同じ区間運賃となっています。

電車が西広島駅に到着しました。

この駅から向こうは路面電車となります。


 
右折して自動車と平行走行していきますよ。

前から来る車両は1900型。
 
京都で走っていた1957年製造の車両。

この色と同じツートンでオレンジラインがない
 
車両の651・652ナンバーが被爆車両です。


 
次の車両もレトロっぽい車両ですよ。

1940年、1950年製造の
 
大阪で走っていた車両です。

これと同じタイプの766号が、TV「西部警察」で
 
宮島口構内で爆破されたそうです!

西部警察といえば・・・

あれだけの爆破と国会前に戦車走らせたり
 
出来たのは、現東京都知事の石原慎太郎が

当時運輸大臣してたから出来たいう噂が。

でなきゃ、駅構内で爆破なんて
 
出来やしないよねぇ。。。


  
最新型の車両も走ってますよ。

近代的で市電って感じがしないのが
 
寂しいですけどね。

2005年から2008年製造の
 
5100型車両です。
 

 
車窓の景色は海に街並み、
 
自動車と並んで走るなど面白いですよ。

愛知にも犬山城近くで名古屋鉄道が
 
電車と自動車が同じ橋を渡ってましたが、

今は電車専用の橋になってしまいました。

少し懐かしく思いながら乗っていました。

そうそう、
 
市電は原爆ドーム近くの道路を通ります。

車窓の景色として見ることができますよ。


 
原爆ドームに関しては、
 
後日ご案内いたしますね。

ここを過ぎると広島駅まではもう少し。

街並みを見ていると終着の広島駅に到着。



市民の足として、観光客の足として

大きな役割を担っています。

廃止も検討された事もある広島市電ですが、

これからも残っていてほしいです。


nice!(0)  コメント(4) 

岩国:錦帯橋(山口) [中国・四国]

今回は、岩国・錦帯橋。

宮島から岩国の錦帯橋までは1時間くらい。

宮島口から山陽本線で岩国へ。

岩国からバスで錦帯橋というルートです。

岩国:

山口県の最東端、錦側の河口に開けた町。

江戸時代には吉川氏が治めた六万石城下町。

錦帯橋や岩国基地、作家:宇野千代も有名。

錦帯橋:

1673年、岩国城主吉川広嘉によって架橋。

現在の橋は、20001年から3年かけて

架け替えられたものです。

独特のアーチ型で5連の木造橋は、

日本三大名橋のひとつ。

東京日本橋長崎めがね橋、山口:錦帯橋)


 
アーチが見事です!

山上、真ん中やや左側に見えるのが
 
ロープーウェイ駅。

右上に見えるのが岩国城です。

あそこまで行きますよぅ。

川原から見る端の裏側は、
 
見事としか言いようがありません。

現代の強度基準を難なくクリアするほど
 
完成度は高いそうです。



橋を渡ったあたりに沢山の柳の木があります。

剣豪:佐々木小次郎は、

錦帯橋付近の柳やツバメを相手に

「燕返し」を編み出したと言われています。

そんな佐々木小次郎の銅像が、

橋を渡った右手に歩くとあります。

左手に坂を下りてくると見えますよ。


 
よぉく見ると刀の持ち方が違うんですね。

あれが燕返しの持ち方なのかな?

ここからロープウェイ乗り場までは
 
桜並木に囲まれた道を進みます。

周りには、吉川資料館・菖蒲園などありますよ。

ロープウェイは年配の方から学生まで沢山。

山頂駅に着いてから写真とれましたぁ。

錦帯橋はわかりますか?

佐々木小次郎の銅像は、
 
錦側に向かって伸びるお堀?の突き当たり。


 
ロープウェイから山道を5分ほど歩くと
 
岩国城が見えてきます。

岩国城:

1608年に初代城主吉川広家が築城。

7年後には一国一城令により取り壊される。

天守閣は昭和37年に復元されたもので、
 
本来の天守台ではなく錦帯橋との景観を考え

旧天守台よりも前方に移動させて
 
今の位置に建てられたそうです。


 
この日は暑くてねぇ。。。

お城まで行くのに汗だくです。 
 
(〃´o`)=3 フゥ

天守閣の最上階は風が通って気持ちいい!

30分くらい居座っちゃいましたぁ。

遠くに安芸灘でしょうか、海が見えますね。

島は甲島とか言ってました。

島の手前に塔が見えますよね。 
 
海上自衛隊と米海兵隊の岩国基地です。


 
錦川に目をやると錦帯橋が見えます。

錦帯橋を中心に街並みができていたんですね。


 
錦帯橋をズームで撮ってみました。

5連のアーチが見事ですね。




汗もひいてきたので橋まで戻りましょう。

まだお昼頃だったので、

広島まで行ったんです。

翌日は天気怪しかったので回っておく事に。

錦帯橋を後にする前に1ヶ所寄りました。

幸運を呼ぶといわれる白ヘビを見られる場所。

ロープウェイ駅の目の前なんです。

宿直明けの更新では、

幸運を呼ぶ白ヘビをご紹介。

お楽しみにぃ。


nice!(0)  コメント(4) 
前の10件 | - 中国・四国 ブログトップ

趣味のカメラで撮った風景、フォト紀行、グルメ?。。。気まぐれ日記です。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。